Pedagogy #00 Prelude
Pedagogy、改め教育学は奥が深い。
教育哲学、教育心理学、教育社会学、教育経済学、教育情報学、カリキュラム学、比較教育学、etc…
教育に結びつく要素があれば、それを教育学に取り入れて活用する。こうして様々な学問が教育学と深く結びつき、多種多様な教育方法が存在する。
そもそも、教育とはなんなのか?という観点から自分自身の認識を問いたださないとただの自己満足の記事になってしまうため、まずはこの問いを自問自答する。
教育とはなんなのか?
本やインターネットを読み漁ると教育が以下の定義から成り立っている。
個人主義的な定義と団体主義的な定義
個人主義的な定義では人間を自立させることが教育であり、団体主義的な定義だと、社会の一員にさせることが教育である。
大雑把に解釈すると、思い描いた人間になる・するということである。
英語を話せない自分を英語が話せる自分にするのは教育である。自転車を漕げない自分を漕げる自分になってもらうのも、もちろん教育である。
そして、この教育を行うにあたって冒頭にも指摘した通り、多種多様な学問から知識を借りて、ありとあらゆる教育方法が存在する。
例えば、AさんとBさんが自転車を漕げるようになりたいと仮定する。
大まかな教育方法としては、以下の二つが存在する。
- 座学
- 実技
Aさんには座学を、Bさんには実技を行ってもらう。
自転車を漕げる人たちはお気づきかもしれませんが、自転車を漕ぐという行為を学ぶには実技が座学よりも教育方法として優れている。現状では、座学による知識(宣言的知識)だけではその行為を学べないからである。(いつかは、マトリックスの世界のようにデータを脳にインプットするだけで学べるかもしれないが…)
しかし、自転車を作れるようになりたいとAさんとBさんが言ってきた場合、果たしてどちらの教育方法が的確だろうか?
専門知識なくして再現できないのであれば、座学の方が優れている場合がある。
座学と実技を交互に用いることにより、片方だけを考慮した時よりも優れている場合もある。
教育とは効率良くかつ効果的に目的を達成できる最適解の教育方法を求めていくことが常であり、現状では完璧な教育方法など存在しない。そして、自分自身は教育者として最適解を望むからこそこの世界にのめり込む。
長たらしく教育とは何かについて書いてしまったが、今回の記事はこの広大な教育学という世界の断片に自身は触れていることを再認識するために書いている。自分自身を教育することで習得した知識をただの自己満足で終わらせないために書き続ける。書き続けて、何事も自問自答して、より教育者として極めていく。
誰かのために記事を書くことを常日頃意識していたが、(そもそもそんなに記事を開示していないけど…)このシリーズを書き続ける原則として、自分自身のために筆を執る。誰かのためになるのであれば尚良。
このシリーズに関する今後の記事は以下のフォーマットを用いてカテゴリー化を行う。
- Pedagogy #XX
- Pedago-Psycology #XX
- Pedago-Philosophy #XX
- Pedago-??????? #XX
今回のタイトルのようなPedagogy #XXシリーズは自分自身が認識している教育分野に当てはまらない時や、語るトピックのジャンルが多様である場合にのみ活用していく。
Preludeの如く、気が引き締まる程度の文章を綴り、一旦筆を折る。
序章の後味を噛み締めながら次の記事に取り掛かるとしよう。